
オーストリアの精神科医ヴィクトール・フランクル(1905-1997)が著した『夜と霧』は、ホロコーストという人類史上最も暗い闇の中で、一人の精神科医が「人間が生きる意味」を問い直した記録です。フランクルはアウシュヴィッツを含む4つの強制収容所に送られ、家族を失い、自らの名前さえ奪われて番号で管理される極限状態に置かれました。
しかし、彼はそこで発見しました。どれほど過酷な状況であっても、人間には最後まで奪われない「精神の自由」があることを。彼は、未来に成し遂げるべき「意味」を見出している者が、生き残る可能性が高いことを臨床的に観察しました。『夜と霧』は単なる生存の記録ではなく、絶望を希望へと変換する、人間賛歌の書です。
日本において『夜と霧』がこれほどまでに長く、深く愛され続けているのは、訳者である霜山徳爾(しもやま・とくじ)氏の存在があったからです。霜山氏は上智大学教授などを歴任した心理学者ですが、彼がこの本を訳した背景には、彼自身の壮絶な戦争体験がありました。
霜山徳爾氏は、第二次世界大戦中、学徒出陣によって特攻隊の隊員(海軍飛行予備学生)として訓練を受けていました。死を目前にした極限状態を生き延びた彼にとって、フランクルの「死の淵で意味を問う」姿勢は、単なる学問的な興味を超えた、切実な「魂の共鳴」だったのです。
1956年に出版された霜山訳は、その独特の格調高い文体によって、日本人の情緒に深く訴えかけました。霜山氏は、フランクルの言葉を「医学用語」としてではなく、「人生を支える祈り」として翻訳しました。彼の誠実な仕事がなければ、日本におけるフランクルの受容は、これほど豊かなものにはならなかったでしょう。
フランクルが創始したロゴセラピーは、「意味による癒やし」を目指す心理学です。彼は、人間にとって最大の苦痛は「人生に意味を感じられないこと(実存的空虚)」であると説きました。その空虚を埋めるために、私たちは人生のあらゆる場面で「意味の発見」を求められます。
フランクルは、私たちが意味を見出すための具体的な道筋として、3つの価値を提唱しました。
特に態度価値は、いかなる自由も奪われた収容所においても、人間の尊厳を保つ最後の手立てとなりました。これは現代のストレス社会においても、私たちが「それでも人生にイエスと言う」ための強力な処方箋となります。
フランクルの人生と思想は、二人の女性との深い愛によって支えられていました。
フランクルの最初の妻、ティリー・グロッサーは、ウィーンの病院に勤務する看護師でした。結婚後まもなく収容所に送られた二人でしたが、フランクルは過酷な労働の中で、心の中にティリーを召喚し続けました。たとえ彼女がどこにいようとも、あるいは生きていようといまいと、彼女への愛そのものが、彼を絶望から救い出す精神的な支柱となりました。看護師として献身的に生きた彼女の面影は、フランクルの理論における「愛の重要性」を決定づけました。
戦後、すべてを失ったフランクルの前に現れたのが、二人目の妻エリー(エレオノーレ)でした。彼女はフランクルと共に、戦後の混迷の中でロゴセラピーを世界中に普及させる活動を支え抜きました。エリーとの穏やかな家庭生活が、フランクルの後半生における旺盛な執筆・講演活動の基盤となったのです。
日本におけるロゴセラピーの正統な継承を担っているのが、日本ロゴセラピスト協会です。その会長を務める勝田茅生(かつだ・かよ)氏は、フランクルの高弟であるエリザベート・ルーカス博士に師事し、フランクルの思想を直接受け継ぐ重要な伝道者です。
勝田氏は、ロゴセラピーを単なる学問に留めず、「苦難の中にある人がどう生き直すか」という実践的なケアとして日本に広めてきました。彼女の言葉は、フランクルと霜山徳爾が築いた伝統の上に、現代的な優しさと鋭い洞察を加えています。日本ロゴセラピスト協会は、多くの人々に「意味を発見する技術」を伝え、現代社会の虚無感に対する盾となっています。
NHKの長寿番組『こころの時代〜宗教・人生〜』で放送されたシリーズ『ヴィクトール・フランクル それでも人生には意味がある』は、大きな感動を呼びました。この番組でナビゲーター(聞き手)を務めたのが、芥川賞作家の小野正嗣(おの・まさつぐ)氏です。
小野正嗣氏は、文学者としての深い洞察力を持ち、勝田茅生氏との対話を通じて、フランクルの思想を現代的な文脈で鮮やかに浮き彫りにしました。小野氏は、フランクルの言葉を単なる「過去の歴史的証言」としてではなく、今の日本社会に蔓延する閉塞感や孤独、そして喪失感にどう向き合うかという「今、ここにある問い」として引き出しました。
小野氏の誠実な語り口によって、視聴者はフランクルの思想が「強い人のための理論」ではなく、「弱さを抱えた私たちが、それでも一歩を踏み出すための杖」であることを再確認することができました。この番組は、ロゴセラピーの普及における一つの画期的な出来事となりました。
Q1: 霜山徳爾訳の『夜と霧』を今読む価値はありますか?
A1: 大いにあります。新しい翻訳も出ていますが、霜山氏自身が戦争を経験し、死を覚悟した背景を持って訳した文章には、他にはない「魂の重み」が宿っています。フランクルの思想の深淵に触れたい方には、ぜひ一度手にとっていただきたい古典です。
Q2: 勝田茅生氏はフランクルの直弟子なのですか?
A2: 勝田氏は、フランクルの思想の正統な後継者であるエリザベート・ルーカス博士に師事されました。フランクル本人から直接の薫陶を受けた世代の知恵を現代に繋ぐ、日本におけるロゴセラピーの第一人者であり、その指導は非常に正確かつ実践的です。
Q3: ロゴセラピーは宗教と関係がありますか?
A3: ロゴセラピーは精神医学に基づく心理学であり、特定の宗教を布教するものではありません。しかし、人間の「精神的次元」を肯定するため、宗教的信念を持つ人にも、そうでない人にも、広く受け入れられる普遍的な哲学を持っています。
Q4: 小野正嗣氏が「こころの時代」で語った印象的なテーマは何ですか?
A4: 小野氏は、フランクルが説く「自己超越」という考え方に注目していました。自分の悩みの中に閉じこもるのではなく、あえて「誰かのために」「何かの意味のために」外の世界へ向かうことが、結果として自分を救うことになるという逆説を、文学的な感性で丁寧に解説していました。
Q5: 日本ロゴセラピスト協会ではどのような活動をしていますか?
A5: フランクルの思想に基づいたカウンセリング、セラピストの養成、そして一般の方も参加できる読書会やセミナーを行っています。勝田茅生氏の「生きる意味を一緒に探す」という温かな姿勢が協会の活動の根幹にあります。
精神科医ヴィクトール・フランクルが遺したメッセージは、年月を経るごとにその輝きを増しています。それは、彼が単なる理論家ではなく、最愛の看護師ティリーを失うという絶望の淵から、「意味への意志」を掴み取った実践者だったからです。
そのバトンは、日本において特攻隊の生き残りである霜山徳爾氏によって日本語へと翻訳され、日本ロゴセラピスト協会の勝田茅生氏によって生きたケアへと進化しました。そしてNHK「こころの時代」を通じて、小野正嗣氏のような優れた知性がその現代的意義を語り継いでいます。
私たちは、人生に何を期待できるかではなく、「今、人生から何を期待されているか」という問いを常に抱えています。ロゴセラピーは、その答えをあなた自身が発見するための勇気を与えてくれます。どんなに霧が深い夜であっても、あなたの人生には必ず発見されるべき「意味」が待っています。