
岩手県大槌町の小高い丘に、一台の白い電話ボックスが静かに佇んでいます。その名は「風の電話」。線が繋がっていない黒電話に向かって、訪れる人々は亡き家族や友人への想いを語りかけます。東日本大震災後、多くの人々の心を救ってきたこの場所は、今や世界中から注目されるグリーフケア(悲嘆のケア)の象徴となっています。
「風の電話」を設置したのは、庭園「ベルガーディア鯨山」を運営する佐々木格(いたる)さんです。意外にも、この電話の誕生は震災前年の2010年に遡ります。佐々木さんが大切に思っていた従兄弟を癌で亡くした際、「想いだけでも電話線に乗せて伝えたい」という個人的な願いから、庭に電話ボックスを置いたのが始まりです。
その直後の2011年3月11日、大槌町を襲った震災により多くの命が失われました。悲しみに沈む町の人々を見た佐々木さんは、「想いは風に乗って伝わる」という願いを込め、個人の庭にあった電話を一般に公開しました。言葉にできない喪失感を抱える人々が、誰にも邪魔されずに亡き人と対話できる唯一無二の場所となったのです。
「風の電話」の最初の一台が置かれたのは、現在と同じ岩手県大槌町吉里吉里にある「ベルガーディア鯨山」の丘の上です。もともと佐々木さんが定年退職後に、命と向き合う庭園として独力で整備していた場所でした。この白い電話ボックス自体も、知り合いの業者から譲り受けた中古のボックスを佐々木さんが自ら白く塗り直し、現在の場所へ設置したものです。
この場所が広く知られるきっかけとなったのが、NHKのドキュメンタリー番組です。特に、2017年に放送された『時をかけるテレビ〜今よみがえる対話〜』では、過去の放送を振り返りながら「風の電話」が人々に何をもたらしたのかを浮き彫りにしました。
番組の元となったのは、2011年に放送された『NHKスペシャル 風の電話〜残された人々の声〜』です。電話ボックス内に設置されたカメラは、受話器を握りしめ、「お父さん、元気か?」「なんでいなくなったんだ」と、震える声で語りかける遺族の姿を捉えました。受話器という「形」があることで、心の中に閉じ込められていた感情が言葉となって引き出される瞬間は、多くの視聴者の涙を誘いました。
津波で家族全員を亡くし、たった一人残された少年が、受話器に向かって絞り出すように語った言葉。行方不明の妻を捜し続け、電話の前で立ち尽くす夫。番組は、単なる悲劇の記録ではなく、「語ることで人は再生に向かう」というグリーフケアの本質を提示しました。放送後、このドキュメンタリーは世界30カ国以上で放映され、大きな国際的評価を得ました。
2020年には、この実話をモチーフにした長編映画『風の電話』が公開され、ベルリン国際映画祭でも絶賛されました。
主人公は、震災で家族を失い広島の叔母の家で暮らす女子高生ハル(モトーラ世理奈)。孤独を抱える彼女が、ある日故郷の岩手を目指してヒッチハイクの旅に出るロードムービーです。道中で出会う人々(西島秀俊、三浦友和、西田敏行)との交流を通じ、感情を失っていた彼女が最後に辿り着いたのが、大槌町の「風の電話」でした。
本作は、第70回ベルリン国際映画祭の「ジェネレーション14プラス」部門で国際審査員特別表彰を受賞しました。現実の被災地の風景と、台本のない即興的な芝居を融合させた諏訪敦彦監督の手法は、世界の批評家を驚かせました。現在、U-NEXTやAmazon Prime Videoなどの主要配信サービスで視聴可能です。
2026年現在も、佐々木さん夫妻によって守られている「風の電話」。訪問される際は、最新の状況を確認し、マナーを守って訪れましょう。
住所:岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里第9地割36-9
名称:ベルガーディア鯨山(森の図書館)
「風の電話」は、震災から歳月が流れても、私たちの心の中にある「亡き人への想い」に寄り添い続けています。NHKの映像や映画に刻まれた記憶は、今この瞬間も誰かの孤独を癒やしています。静かな丘の上で受話器を取る時、あなたはどんな風の声を聴くでしょうか。
【参考資料】 ・NHK『時をかけるテレビ〜今よみがえる対話〜』公式サイト ・映画『風の電話』公式サイト ・佐々木格 著『風の電話:大槌町「ベルガーディア鯨山」より希望を込めて』