大関増裕(おおぜき ますひろ、1838年~1868年)は、江戸時代末期の下野国黒羽藩第15代藩主です。遠江国横須賀藩主・西尾忠宝の三男として生まれ、文久元年(1861年)に大関家の養子となり、家督を継ぎました。大関増裕は、蘭学を学び、オランダ語や英語にも精通、西洋の学問や文化に深い関心を持ち、洋式兵術も習得していました。
大関増裕は、幕末の動乱期に幕府の重要な役職を歴任されました。文久2年(1862年)に陸軍奉行、慶応元年(1865年)に新設された海軍奉行、そして慶応3年(1867年)には若年寄に就任し、軍備の強化に尽力しました。外様大名であるにもかかわらず異例の抜擢を受けたのは、危機的な状況下で幕府がその能力を高く評価したためと考えられています。
藩政においては、文久3年(1863年)に全権を委ねられ、改革を断行されました。財政再建のために勧農方を設立したり、西洋式の兵制を導入したりしました。また、藩校「作新館」(勝海舟が命名したとされています)を創設するなど、富国強兵と人材育成に力を注ぎました。
大関増裕の縁戚には、トレインドナースとして知られる大関和がいます。大関和の父・大関弾右衛門は大関増裕の縁戚にあたり、大関和は幼い頃、大関増裕から外国語の書物を見せられ、異国の言葉の存在を知ったそうです。
大関増裕は慶応3年12月9日、狩猟中の猟銃暴発事故により、31歳という若さで急逝されました。死因については諸説ありますが、戊辰戦争が始まる直前の彼の死は、黒羽藩の運命に大きな影響を与えたと推測されています。
参考:明治のナイチンゲール大関和物語(田中ひかる)、デジタル版 日本人名大辞典+Plus 、Wikipedia、日本の歴史ガイド~日本のお城 城跡 史跡 幕末、大田原市立図書館、コトバンク